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畑も、祭りもゼロから作る。「伝統のない村」に生まれた「1000年広がる環」の形

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赤城山の北麓、北西には沼田市を臨みながら車を走らせる。視界いっぱいの広大な田畑を前に、自然と胸が高鳴る。ここは群馬県北部、標高約750メートルに位置する昭和村の農園「星ノ環」。雨上がりの心地よい風と、青々とした香りで満ちた穏やかな風景が私たちを迎えてくれた。

この畑で育つ野菜たちは、見るだけでも元気になれるような強さと、食べた人を幸せにする優しい力を持っている。農園を営む星野高章さんも、ここ昭和村で生まれた。

何もないから、やるしかなかった。戦地だった昭和村の歴史

星ノ環の事業は、昭和21年の戦後開拓とともに始まった。レタスをはじめとする高原野菜の生産が盛んな「農業大国」のイメージがある昭和村だが、もともとは手つかずの原野で、戦時中は旧陸軍の演習地として利用されていた。

終戦を迎え、戦地から引き上げてきた人々は食糧増産のため各地へ散った。面積の広い昭和村も開拓対象地となり、多くの人手が入る。高章さんの先々代は、その開拓者のひとりだった。

当時の昭和村には水が引かれておらず、まずは水源を確保する必要があった。灌漑施設(田畑に水を引く水路等)が作られるまでは、風呂などの生活水は雨水を溜めて使っていたのだそうだ。

「昭和村は、何もなかったからこそ野菜の産地になれたのかもしれません。もとから便利な土地だったら、『なんとかしないと』っていう精神が生まれなかっただろうから」(高章さん)

ここで生きていく。そのためには、自分たちの手で仕組みを作り、形を変えていかなければならない。この開拓魂は、昭和村を支える生産者の間で、今も受け継がれている。それを証明するもののひとつが、村の有志たちによって平成7年から開催されている「ウインターフェスティバル」だ。

入植が行われるまでは飲み水もなく、人の暮らしが存在していなかった開拓地域には、「伝統」といえるものがなかった。伝統がなければ、祭りもない。だから村の子どもたちは、「どうして、うちの村にはお祭りがないの?」と聞いた。

それに対する大人たちの返事が、「昭和村に花火を上げる会」を立ち上げ、祭りをゼロから作ってしまうことだったのだ。

「そのへんの昔から知ってるおじさんたちは、いつも酒飲んで酔っ払って、ろくな事言ってないと思ってたんですけど。前例のない中でやりきるっていうか、言ったことはちゃんとやるんですよ。それが衝撃的でしたね。どんなことでも、最初にやるって大変じゃないですか」

何もなかったところに田畑を作り、さらには伝統も作ろうとする。現代になっても地元を開拓し続ける「おじさんたち」の姿を見た高章さんもまた、「昭和村に花火を上げる会」会長を2014年まで務め、先人の苦労を忘れぬための「水汲み祭り」を開催するなど、村の伝統と文化をクリエイトする存在となった。

「『野菜が伝統です』となると、時代が変わってもずっと野菜を作んなきゃいけないじゃないですか。だけど、『開拓魂』みたいなものを伝統とするなら、新しいことにチャレンジする気持ちが伝統になれば、この村はもっと良くなると思うんです」

「遠い親戚のような関係」が生まれる農園にしたい

シーズンになると、1日に約12,000個ものレタスを出荷する。出荷作業をしていると、ふと「何のためにやっているんだろう、これは誰が食べているんだろう」と感じる瞬間があるという。

野菜を作ってお金に変えるのが仕事なのか、いやそうではない、作った野菜を食べた誰かが喜んだり、健康になったりする機会を作っているはずだ。その感覚を忘れずにいるために、星ノ環ではあらゆる購入者の声に耳を傾ける。

「よくお客さんから電話がかかってくるんです。『知人に送ってもらって美味しかったから、今年は自分で買いたいんだ』とか、『去年買ってみたけど、今年も食べたくなった』とか。そういった反応が直接聞けるのって、やっぱり嬉しいんですよね」

星ノ環スタッフであり高章さんの妻でもある美樹さんは、やわらかな笑顔でそう語る。

「スーパーなどで買ってくださる方々に僕たちの思いやストーリーを伝えるのは難しいし、そもそも伝えたところでお客さんのプラスになるかは分からない。でも、ただ野菜を作って送るだけじゃなくて、どうにかアプローチしたいなと思っています。市場によって大切にされる価値や需要は異なるので、それぞれにマッチしたものを届けていきたいですね」(高章さん)

消費者とのより深い関わりを持つため、これまで多くのイベントを開催してきた。時には食育活動の一環として「畑の先生」を引き受けることもあるそうだ。

「『とうもろこしは、実がそのまま地面から生えている』と思っていた子が畑に来てみて、『マジか…マジか…』とショックを受けている場面があったり(笑)。いつも食べている野菜でも、実際に生っているところを見て初めて知ることがたくさんあります」(美樹さん)

またこのようなイベントは、子どもたちだけでなく大人にとっても実りのある機会となっている。

「イベントで出会った人同士が、『あの人元気にしてるかな』と遠い親戚のような関係になっていくんです。輪が広がっていく感じって、面白いですよね。普段は野菜としか向き合っていないので、どうしても『これって、誰が食べてるんだろう』と思ってしまうこともあります。だから、こんなふうにお客様といろんな関わり方ができるのが嬉しくて。そういう場を作りたいと、いつも思っています」(美樹さん)

「群馬県産」「昭和村産」の野菜を見たとき、それが星ノ環の野菜でなくても、つい気になってしまう。レタスの苗やとうもろこしの畑を見ると、スーパーで野菜を見る目が変わる。関わる人々が、たんなる生産者と消費者の関係を超えた新しいつながり方を楽しむ。そのために、星ノ環は手間を惜しまない。

「みんな幸せな社会」へ向かって着実に歩むこと

昭和村は、比較的早いタイミングで外国人技能実習生の受け入れを始めた地域のひとつ。星ノ環も1995年からたくさんの実習生たちを農園へ受け入れてきた。現在7名が在籍し、農業への従事はもちろん、帰国後の活動に役立てるための事業計画の作成なども行なっているという。

「成功した時代がない、ということが昭和村の歴史なんです。いつも何か足りないから蕎麦を作ってみたり、畜産をやってみたり。作る野菜も徐々に変わっているんですよ。そういったチャレンジの中のひとつに、実習生の受け入れがあったのだと思います」(高章さん)

また、先代である高章さんの父は、受け入れた実習生の出身国をよく訪れていたそうだ。地元である農村を飛び出して日本で働く実習生たちと、先代が開拓の道のりの中で経験した努力が重なり、同じ目的を持った仲間として対等な関係を築いてきた。高章さんもまた彼ら/彼女らの出身国を頻繁に訪問していて、ある実習生の結婚式に出席したこともあるという。

星ノ環のビジョンは、「みんな幸せな社会」。大きすぎるように見えたとしても、決して諦めてはならないこの目標に向かって、自分たちにできることは何かを考える。お金を稼ぐことだけではない価値を提供し、1000年後も農業を続けるために人を育てる。これが、星ノ環が進んでいる道だ。

「実習生たちと自分たちは同じく『農業』をやっているけど、たまたま生まれたところが途上国の農家だったから、生計を立てるのが難しいだけなんです。むしろ、人生の貴重な時間をうちの農園で過ごしてくれているんですよ。だから、実習生たちを“使って”、賃金を払いさえすればいいなんて、どうも思えないんですよね」

この場所は、まだまだ良くなる。開拓から生まれたその希望が、新しい挑戦や文化と共存する器になっているのかもしれない。

開拓の原動力 ー 「地域の環」と「世界の環」

時代は令和になった。「戦場」から「農の村」へと姿を変えた昭和村には、いま新しい農業のあり方が求められている。

「今まで、このあたりの農業には『夏は休みなく働いて冬はほとんどお休み』という形がありました。でも雇用することを考えると冬にもお金を稼がなくちゃいけないし、忙しいからといって暑い日に休みなく働くのは現実的じゃない。『農家だけは他の組織とは違う』なんて、もう言ってられないんです」(高章さん)

これからもこの場所で農業を続けるには、仕組みを根本的に変える必要がある。今後の課題は、時代の変化に合わせた整備をしていくことだ。

「昭和村の1軒あたりの農地面積って、昔はすごく大きかったんです。だけど今は、もっと大きな農家が全国的に出てきていて。すごく恵まれた地域、というわけでもなくなってきました」(高章さん)

野菜がよく売れ、単価も高かった時代においては、ただ野菜を作っていれば何の問題もないと考えられていた。しかし高章さんは、そんな当時から「本当にそうなのか?」と疑問を抱いていたという。

汗を流して作物を育てることと、それを一般的な職業として持続させるための仕組みを作ること。限られた時間の中で、どうしてこれらを両立させることができるのか。ふたりが抱く夢の中に、そのヒントがあった。

「企業理念である『農から生まれる喜びの種を蒔き続け、その実りを共有する』。これが、私たちが農業を続ける理由です。でもそれだけではなく、『一緒に働いている実習生たちを地元のリーダーにしたい』という夢があるんです。星ノ環で、昭和村で、世界で生まれた環がお互いに共鳴するように。信じるものがあるから、大変だと思わずに自然と活動できているのかもしれません」(美樹さん)

先人たちの遺した豊かな土地をこれからも末永く使えるように、変化を恐れずに進むこと。そして農園をとりまく人々と深く関係し、未来の種を生む営みを大切にすること。開拓から75年経ったいまでも、現代の開拓者たちが焚べてゆく薪によってその魂は燃え続けている。

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