つながる、つなぐ、小さな一歩 ~アンカンミンカン富所哲平~
4月、小学校1年生に上がった長女に付き合って、登校班の待ち合わせ場所まで一緒に歩きます。
重そうなランドセルといくばくかの不安を背負う長女を気遣ってか、3歳の次女も、一緒にくっ付いてきました。一人の親として、通学路にゴミが落ちているのはなかなか良い気分がしなくて、なんとなくで始めたついでのゴミ拾い。一週間、次女を従え、長女を送りながら、ゴミを拾い続けて迎えた火曜日のこと。その日はFM群馬の朝の番組「WAI WAI Groovin’」の中継担当の日で、一緒に通学路を歩くことはできませんでした。パパは、前橋~伊香保間(20km)を、走っていました。ラジオなのにマラソンという疑問は置いておいて、その途中のホテル街で目にした、両側の草むらの中の大量のポイ捨てゴミ。その光景は、20kmのマラソンよりも、ずっと僕の胸を苦しくしました。
思いました。通学路のゴミをいくら拾ったところで、目の前のゴミをいくら拾ったところで、ゴミはたぶん減らない。意味がない。無駄なことはやめよう。もっと大きな何かを、いつかやろう。
どうせ変わらないなら、自分一人が頑張ったってしょうがない。どこかの誰かが、画期的な何かをやってくれることに期待しよう。
どうしても人は、大きなアクションを求めて、小さなことは諦めてしまいがちです。
小さな一歩は、どうしたって、無力感に押しつぶされることがあります。
本当にちょうどその時、ポケットに振動があり、LINEにメッセージがありました。例のごとく次女を従えて、登校班の待ち合わせ場所まで、僕の代わりに長女に付き添い歩く、妻からのLINEでした。

「自らゴミ拾い始めました」
無駄じゃなかったんです。
小さい一歩は、小さいからこそ、誰でも真似できるっていう大きなメリットがありました。
3歳ですよ?
つながっていました。
月並みですが、何がつながっているか、わかったもんじゃないです。僕らは一人じゃ生きていくことはできなくて、確実に、誰かと、どこかでつながることで、今を生きています。
そもそもの話、過去から現在に、命がつながってきたからこそ、僕らは今を生きることができています。
そしてそれを未来につないでいくのだと思います。
今回の「つなぐ”とき”を」でのコラムが、どこかの誰かの何かにつながることを想像して、ワクワクしながら、毎月、書かせて頂きますので、気が向いたら受け取ってください。メガネを振って喜びます。
やるか、やらないか。僕たちの目の前にあるのはそれだけです。

小さな一歩が、どこかの、誰かの、何かに、つながりますように。
